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  石堂さんの福島救援日記  (2011年9月17日~10月13日)
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■石堂淳士さんの報告講演(日本共産党堅田北・仰木後援会ニュース2011年10月30日号から)


 (福島救援活動に参加してきた石堂さんは、10月26日、3度めの福島に出発しました。詳細報告する間もなしでしたので、後援会ニュースから報告講演の要旨を紹介します)

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 日本共産党堅田北後援会は10 月23 日、大津市真野北市民センターで「原発問題を考えるつどい」を開き、県日本共産党後援会事務局長・石堂淳士さんが講演しました。

 石堂さんは「原発から撤退し、再生可能・自然エネルギーへ舵(かじ)を切ろう」「みなさんの原発ゼロへの行動を湖国各地に広げていってほしい」と呼びかけ、次のように話しました。

 「今、被災地の人たちは除染で困っている。1戸あたり100 万円以上かかる除染費用を全額国が負担するのは当然のこと。原発事故を人災と認めさせ、全面補償なくしては、もとの生活には戻れない。福島原発に入っている作業員は下請けの人たちで、作業後の健康検査もなく各地に散っている。実態がつかみようがないのが現地の状態だ。福島県の子どもの16 人中10 人に甲状腺に異常が出始めている。危険な原発は即、おしまいにして再生可能な自然エネルギーへと舵を取ること。太陽光、風力、水力、地熱発電の再生可能エネルギーは環境省の調査でも20 億5800 万Kwと現在の電力供給能力を十分カバーできる。原発からの撤退の声を大きく広げて、びわ湖を、私たちの地域を、農業を、みんなで守っていこうではありませんか」

 石堂さんは日本共産党滋賀県委員会の常任委員。6月15 日から1カ月と9月15 日から1カ月、福島県いわき市など被災地3県で活動してきました。


2011 年10 月13 日(木)
 常磐の溝口事務所へ。奈良からのボランティア5 名、復興センターへのオルグ1 名と合流。広野町の畑中議員も参加して、常磐関船の広野町仮設住宅を訪問。

 午後3 時、復興センターに戻り、感想を交流。
 広野町・仮設住宅居住者の声は次のようなもの。

 ●放射能の不安が消えない、子どもに対する影響が心配

 ●解除されても除染されなければ戻れない

 ●東電の補償申請は難しすぎて書くのがわずらわしい

 ●家族と暮らしていたのに、バラバラになってしまった

 ●広野の家の震災影響はほとんどないのに、帰れないのは何とかしてほしい

 ●ローンが残っているが住めないのが悔しい

 ●孫のことが心配で、親は広野で済み働き、孫といっしょに仮設で暮らしている

 ●窓・物干しに軒がなく、丸見え状態をなんとかしてほしい

 ●壁が薄く、となりの音が気になる

 ●仮設に入っていると気が滅入る

 ●屋根が薄く、雨の音がうるさい

 ●第二次避難の際の幼稚園(保育園)に通わせているので、仮設住宅の近くで通える幼稚園(保育園)をつくってほしい…。

 要望は多い。同時に原発や東電で働いている方もいるため、原発をなくしてほしいと同時に、どこで働くのかが深刻な問題になっている

2011 年10 月10 日
 午前8 時半に「ママの会」から電話。署名用紙とビラが足りないので届けてほしいとのこと。午前8 時半から、本部テントも借りることにしている。今日もロングランの署名行動、頭が下がる。様子を見にいこう。

2011 年10 月8 日
 今日は朝から事務所がにぎやか。人数が多すぎて、ご飯が足りない事態が初めて発生。

 「ママの会」2 名+3 名が事務所に。どうも眉唾ものの検査で放射線測定をしたお母さんの検査結果について聞きたかったよう。放射線量の種類の数値が一切書かれていないこと、原発事故の際の大気に放出された核種との整合性がないこと、パンフレットが苦笑ものだったこと、何がおかしいのか説明すると納得。「1 週間寝れなかったぺぇ~、ほんと、いわきから逃げなきゃなんねぇ~って思ってたんだよ」と少し安心いただけたよう。

 あわただしく、忙しいし、誰が誰やらという具合で、バタバタしてる1 日。

2011 年10 月7 日
 事務所に電話で相談。「アクアマリン福島で行われている砂遊びや釣りなど、海水に触れるということは大丈夫なのか?」「めばるなんかも放射線量が含まれているのではないか?」「ふれあい体験学習で小学校をまわるそうだが、除染対策はできているのか」などなど。

2011 年10 月6 日
 午前10 時半、常磐にお住いの方から電話。「娘が9 か月の赤ちゃんをかかえ、母乳を飲ませているが、放射能汚染が心配、赤ちゃんの内部被曝が心配で精神的にも追い詰められている、家の庭は0.3マイクロシーベルト、室内は0.19。夫は大丈夫だというが心配でしょうがない。保健所に連絡をして母乳を検査してほしいと訴えるが『市が制度がないのでできない』と言われ、民間でやると1.5 万円かかると聞いている。赤ちゃんのおしっこも検査したいと娘は言っているがどうにかならないか」。

 午前11 時、「ママの会」が事務所に。署名行動で相談。元気だ。

 「放射線量おはかりします」「り災証明はお出しになりましたか?」「り災証明書の判定には納得していますか」と宣伝カーで地域をまわる。「屋根が落ちた件で大変お世話になった、ありがとう」という人たちもある。

 午後1 時過ぎ、相談者が事務所へ。「みかんを栽培しているが、基準が難しくてよくわからない」。国や県が示している放射線量基準値について説明しながら、畑などでできる野菜などについての状況を知らせる。完全に大丈夫とは言えないが、その地域の放射線量をお知らせするだけでもホッとされる。

「気にしている人が多い、みんな黙っている。私ストレス溜まっちゃうので…」「こういう話を聞いてくれて、本当に助かります」
 その通りだと思う、ずっと我慢している方々が多いのも事実だ。声なき声をどう取り上げるのかが課題。

2011 年10 月5 日
 今日は、はんげんきゅうそく。午前6 時半、妻を勿来IC で迎える。

 午後12 時半、中田さん夫妻が、昼食にお寿司をごちそうしてくれた。握りとうな重 うまかったです。

 午後5 時、妻を勿来駅に送る。

 午後6 時過ぎ、事務所に戻る。

2011 年10 月4 日
 古殿町の岡部町議と鹿児島から2 名が視察。「防災のまち」のための視察だ。上下水道も長い期間が過ぎているものについての対応や、学校・公共施設の耐震化、地域の方々への液状化予想のお知らせなど、たくさんあることが見えてくる。放射能対策も必要だし、そもそも原発からの撤退が大前提ではあるが、震災の被害から市民を守る自治体のあり方、具体的に指摘し改善を図っていくことが犠牲を最小限に食い止める道。

 午後5 時半、「ママの会」署名をとりにくる。ロシア製の内部被ばく測定器で昨日20 名計測したら、16 名が内部被ばくしていたとの報告を受けた。コバルトが検出された…などの話で、連絡先を聞く。署名をもっと集めないと(目標は5 万…すげえなぁ)、と10 月10 日の植田町ホコ天のときに署名をしようと商工会に連絡を取るらしい。

 明日は、妻が朝から来てくれる、夕方までだが、久しぶりの休日となりそうで楽しみ。

2011 年10 月3 日
 午前7 時半、起床・朝支度。洗濯ものが溜まっていて、着替えがないことに気づき、あわててコインランドリーに走る。

 午前10 時半過ぎ、事務所へ到着。みなさんは、それぞれ活動に出かけていた。

 午前11 時、頼まれていた無線LAN の設定に、しばし格闘。

 午後3 時50 分、復興共同センターより「平のセンターに救援ボランティアを集中することになった」と連絡。

2011 年10 月2 日
 午前9 時、事務所に到着。

 午前9 時半、向かいの「フレシュみなかわ」の前に止まっている車の右後輪がパンクしているのに気づき、伝える。

 午後12 時、昼食。朝パンクを知らせてくれたお礼だと言って、魚の煮つけとかぼちゃの煮付けが差し入れ。

 午後11 時ごろ、守山市議会議員選挙の大勢が判明。20 議席のなかに95%で2 名とも入っている。草津市議選の議席増に続いての勝利。ご苦労様でした。

2011 年10 月1 日
 午前7 時半、目が覚めるが、夜中までうるさい宿泊客に悩まされ、あえなく二度寝。午前10 時、目覚めて、あわてて朝支度。

 午後12 時、午前中寄せられた相談事で相談。川ののり面が、震災と大雨で土がむき出しになって危険だ、という話だった。

 ボランティアの受入れは、12月10日 でいったん打ち切り、4 月から再開する予定。冬季の路面凍結などの交通事情を配慮してのことで、物資は受け入れを続ける、とのこと。

 地域の方から、半壊と一部損壊の援助金支給について「不平等感がある」ことについて、意見が出され、しばし議論。り災申請の受け付けを打ち切ろうとする職員もいること。一部損壊への手当がなにもないこと。住民税の免除などもないこと、などなど。

 午後6 時、復興祭で「ママの会」署名行動参加のみなさんがお帰り。署名が327 筆、40 分の間に。「ありがとう」「こんな署名を誰かがやってくれるのを待っていた」なんて声がたくさん返ってきたこと、「ママの会」が本当に初々しく署名してたこと。事務所に来た時とは大違いだ…

                                    (写真はママの会の署名 上右は宮川県議)
2011 年9 月30 日
 午前7 時半起床。余震が続く夜だった。

 「ママの会」の若いママさんから電話。署名板を追加で1 枚ほしいとのこと。

 この間、寄せられている相談について伝達と対応。アパートが大規模半壊となった方に、具体的に手続きの仕方等をレクチャー。

2011 年9 月29 日
 午前7 時半,、起床、朝支度。昨日の夜中も煩かった。

 午前9 時、事務所に到着。佐野さん「犬が死んじまって…」。昨晩亡くなった。2 年ほど介護していた。「いやぁ~手のかかった犬だべぇ~」。12 年生きて、3 度ほど椎間板の手術もした。こちらに来てから、2 匹目。避難地域のペットの話を思い出した。そこにあるものが、いるものが失われるのは、傍目にどう映ろうと、辛いもの。その現場にいることをあらためて感じた。

 兵庫からメール。「プロパンガス用ストーブが16 台あり、受け入れはどうか」。

 午後7 時、結構大きな地震。その後、ずっと余震が続く。

2011 年9 月28 日
 夜中に掃除機は唸るわ、足音は大きいわ、テレビのボリュームはでかいわで、寝不足気味です。

 午後12 時、午前の行動者が落ちていた大粒の栗をたくさん拾ってきてくれた。台風で倒れた看板撤去。

 午後5 時、「ママの会」若いママさん2 名+ゆうとくん事務所に。いやいや、にぎやかな事務所になりました。

 いわき市があらためて放射能から子どもを守る施策を前進させた。サーブメーター市内に43 か所(約5 ㌔圏内)、簡易測定器134 台12 月までに配置、簡易線量測定器を800 台。

2011 年9 月27 日
 電話で相談あり。「店の修理をしたいが、申し込み手続きをどうすればいいのか」

 午後1 時半、買い物に出かける。どこになにがあるやら、すっかり疲れる。車が多いのと、トラックの多さにヘキエキ。

   久ノ浜のなくなった住宅街          仮設住宅前で兵庫のボランティアの人たちと
                             記念写真に収まる石堂さん(左端)

2011 年9 月25 日

 午前11 時、「ママの会」の若いお母さん2 名と子ども3 名が事務所に来られる。「『さよなら原発』東京集会に行きたっかったぺ~」「だってぇ~誘ってくれなかったぺ~」「デモ行進でもなんでもやるっぺよ~」「東電のやろうふざけてるっぺ~」「賠償の申請、補償金申請をいったん受理するって通知よこして、今度は対象になってないって言ってよこすんだかんなぁ~」「逃げたいわき市長は、リコールすっぺぇ~」「署名は学校に置いてくっぺ~」「区長に言って、回覧板でまわしてもらうっぺ~」などなど、激しく元気なお母さんたちでした。

 復興共同センターから連絡。「奈良からのボランティアが到着」

2011 年9 月24 日
 午前9 時、復興共同センターに到着。兵庫のボランティアの方1 名が合流し、8 名に。打ち合わせ。進行は石堂が行う。うまく伝わったかどうか…。

 午前9 時10 分。新荒川仮設住宅へ出発。車がはぐれ、遅れて到着。管理組合? と先着のボランティアが話をしていた。

 午後1 時、ボランティアが戻る。活動報告書を書いてもらう。募金を届ける。

 午後3 時半、久ノ浜へ。震災後津波に襲われ、火災が発生した地域で、ボランティアももっとも遅かった地域。

 午後4 時半過ぎ、久ノ浜の小学校敷地内にある商店街(8 店舗)の浜風商店街を訪れる。被災展示館があったが、とても見ていられない。すさまじい被害だ。

 午後6 時、復興共同センターへ戻り、書類の整理。

 ボランティアへの注意事項は徹底しないと、せっかく来てくれたボランティアへの不信になることもある。反省。どうしていいかわからない現状をいっしょにするのが訪問活動。大反省です。

2011 年9 月23 日
 午前9 時、浜通り復興共同センターに到着。兵庫のボランティア9 名、お久しぶりです。

 いわき市平上荒川の仮設住宅へ訪問。要望聞き取り。

 午前10 時、上荒川の仮設住宅に到着。住んでいるのは楢葉町の住民。楢葉町は原発から20 ㌔圏内で避難されている。午前中、86 戸を全戸訪問。どこのお宅も「ご苦労さま、遠いところから…」と温かく迎えてくれる。「原発さえなければ、戻ることができるのに」が共通した声。

 楢葉町は、被災している家屋が相当数ある。原発事故により即時避難を余儀なくされ、家のなかがぐちゃぐちゃな状態のまま、仮設住宅入居となっている。り災証明なんてとんでもないわけで、半年間空けてしまっている家の傷みなどの補償等で疑問も出された。入居間もないこともあり、何が足りないかはこれからの課題。

 午後12 時、共同復興センターに戻り、昼食。共同作業所手づくり弁当。エビフライが堂々と弁当のなかに横たわっていた。

 午後1 時、事務所を出発。昼からは155 戸の全戸訪問。

 午後3 時、訪問を各組切り上げて、仮設住宅前で記念撮影。石堂も写してもらいました。事務所に戻り、よせられた声のまとめ。成り行き上、しきらないといけなくなってしまう。

2011 年9 月22 日
 「『罹災証明の再申請などのお手伝いします』って聞いたから。震災被害を写真にとって役所に送ったけど、何も言うてこないで、ちょっと前に『一部損壊』。納得がいかない。台風で雨漏りするし、年寄り夫婦でどうすればいいのか…」と相談。放射線量測定に出発。

 明日からいわき市平でボランティア受入れ。今夜は平で宿泊。

2011 年9 月21 日
 朝支度しながら台風情報を見る。「防災のまちづくり」が本当に問われていると感じる。

 午前10 時前事務所到着。昨日記録できなかった石住小学校門前の計測。

 午後12 時、昼食。肉じゃが、茄子の漬物。毎日、ありがとうございます。

 台風がどうも直撃するよう。午後3 時、雨が激しくなり、早く上がる。コインランドリーに向かうが、冠水で動けない車があり通行止め。別のコインランドリーを探し、洗濯無事完了。

2011 年9 月20 日
 午前9 時、打ち合わせ。「また来たのけぇ~、向こうおん出されたんじゃねぇのかぁ」。

 午前10 時、遠野町に線量計測にでかける。実に自然豊かな土地で、川の流れの風景も風情がある。

  午後1 時、いわき市隣の古殿町の岡部淳一町議が事務所に。古殿町でも 震災以後の余震で全世帯の1/3が何らかの被害を受けた。町は見舞金を一世帯2 万円、一人2 千円、上下水道に10 万円~50 万円の補助金(40 戸ぐらい水が出なくなった)を出したが、半壊以下、一部損壊の場合には何の補助もないことが問題になっている、などなど。

 7 月に大津市議団が持参してくれた味噌が好評で、事務所の炊き出しで喜ばれている。支援物資で送ってもらえるように電話してみようと思う。

2011 年9 月19 日
 午前10 時、中田さん、佐野さんが放射線量を測りに出かける。子どもたちの遊び場などの線量で相談に来ていた若いママが子どもと線量計を返却にこられ、相談に乗る。家屋のり災証明判定で別の相談あり。役所は「問題ない」というが、そのままでは住めず、基礎工事に500 万円もかかるという。

2011 年9 月18 日
 午前9 時、事務所で打ち合わせ。少し風は出てきて心地いいけど、日差しは厳しく、かなり暑い。川端さんの猫が昨夜亡くなった。

 「線量低減化活動支援事業実施要綱」を勉強しなおす。あまりにも煩雑で少しイライラ。あくまで「自主申告」。行政からやるものではないようだ。

 午後5 時、川端さんが線量計を持ってきてくれる。猫、ご愁傷様です。

2011 年9 月17 日
 午前10 時10 分、勿来(なこそ)の宮川えみ子事務所に到着。「あらぁ~、おかえりぃ~」。「ただいま」です。

 炊き出し食事を何もしていないうちから食べる。

 午後1 時、政府の文書、原発関係の文書に目を通す。宮川県議、通夜があると、急ぎ出かける。

 午後4 時、浜通り復興共同センターから連絡。「23 日、24 日は浜通りで活動を」。若いお母さん2 名が、放射能不安で来訪。

 午後10 時、日誌を書きながら、早く福島モードに切り替えなければと思う。